西海岸近くの速射砲陣地で青山辰也少尉は微かな潮騒の音に耳を傾けていた。
入営前、婚約者の亜季子と都内で一日過ごしたあとで夕暮れに立ち寄った目黒不動尊の境内。
あの日の二人は意識して戦争にも軍隊にもふれないようにしていた。二人とも、長引く支那大陸での戦いで亡くした身内がいたし、我が身に迫った別離にはなるべくよそよそしい態度を取りたかった。まるでそうすることで、戦場へと続いていく目の前の現実から少しでも遠ざかれるかのように。
この非常時に非国民が!と言わんばかりの刺すような視線には何度もぶつかったが二人は意に介さずに歩き続けた。この「今」は宝石のような時なのだから一分一秒も無駄にしたくなかった。
時計に目を落とすことを意識して避けた一日だったが、それでも駆け足で夕暮れはやってきた。
「辰也さん 去年の夏に行った滝を覚えてる?」亜季子は見上げるようにして突然言った。
「うん 耳元で歌ってくれたね」
あの時は奥多摩へ出かけ、二人で深い緑色に染まった湖面を見つめながら滝の音を聴いて一日を過ごしたのだった。
木製のベンチで寄り添って座り、辰也はアーサー王伝説をゆっくりと話して聞かせた。エクスカリバーを抱いて湖面へと浮かび上がってきた妖精の美しさとアーサー王の数奇な運命とその最後を。
頭を肩にもたれさせて聞いていた亜季子は、湖面を指さして言った。
「あの深みから妖精が浮かんできたら、エクスカリバーを私にくれるかしら?辰也さんが無事でいられる魔法をかけてあげたいから」
「魔法がなくても僕は大丈夫だよ。亜季子を連れてヨーロッパへ行く約束があるから果たさないといけないし」
「ケルトの文学を研究したいんでしょう?」
「うん アイルランドのトリニティカレッジにも行ってみたいんだ」
「アイルランドは敵じゃないの?」
「いや 日本の敵じゃない。イギリスに700年も支配されてきた国でね、もしもインドの位置にアイルランドがあったら日本と一緒にイギリスと戦ったかもしれないよ」
「アメリカもイギリスも辰也さんと同じキリスト教徒の国なのにね。なんで憎みあうのかしら?」彼女は下唇を噛みしめ、その日初めて時計に視線を落とした。
「ナチスドイツとイギリスやアメリカもそうだよ 互いに同じ神に祈りながら戦ってる」
「人間には計り知れないところがあるのかもしれないね」辰也は静かに続けた。
東京の空を紅く染めていた夕日が落ちようとしている。見上げた二人は不意に沈んでゆく太陽をもう一度呼び戻したい気持ちに強く捉えられた。もう一度 できることなら二人の一日を呼び戻したい。
「亜季子 あの歌 もう一度歌ってくれないか?」
「夢に出てきたんでしょう?亜季子が見た夢に。鐘の周りを小僧さん達が回ってて、亜季子はその時代に生きていた遠い記憶がよみがえってきたって言ったよね」
辰也は優しく亜季子の手を取ると軽く振りながらそっと唇に押し当てた。そのまま木の柵に腰を下ろすと彼女は瞳を閉じて歌った。「三十三間堂は燃えてしまった・・・」
美しく心細げで、それでいて心の奥深いところにある襞を愛撫しながら滑り込んでくるような声だった。
沸き上がってくる郷愁と悲哀と、断ち切らねばならない未来への願いが明滅しながら二人の胸を引き裂くように思えて彼は強く彼女を抱きしめた。二度と離したくないと思い、このままひとつになって戦いが猛り狂うこの世界から飛び去りたい気がした。
二人は現実の前で無力だった。別離に立ち向かうどんな術も持たなかった。
「どうにかして」彼女は絞り出すように言った。
「辰也さんだけは戦争に行かなくてすむようにできないかしら?」
「他の人は戦うのにかい?」
「二度と会えないかもしれないのよ! 私達だけでどこかに逃げられないかしら?」
「男のすることじゃない!」
語気を強めてから彼女の頬が濡れているのに気づくと彼は優しく手の甲で涙を拭った。
「戦える者が前に出て防がないと亜季子の盾に誰がなるの?僕は亜季子のために生きたいし亜季子のために命を賭けたい。肉親と郷土を守りたいんだよ。国民が勇気を振るって最後まで戦い抜くことが、天皇陛下の御心に添い悠久の大義に生きることだと信じてる」
「亜季子への愛と日本への愛は僕の中で一直線につながってるんだよ。恋い焦がれる気持ちはひとつ 命を投げ出す値打ちがあるもの」
艶やかな彼女の髪に唇を押し当てながら辰也は自分に言い聞かせるように囁いた。
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