さつま通信

2011年4月15日金曜日

第3章007:オレンジビーチ - スリーデイズメイビー

 ハルピンでもっとも成功した貿易商の松浦洋行のフロアで、マフラーを買い求める美奈子の肩を見つめながら、少佐は売り場をやわらかく照らし出すライトの下を行き交う雑多な人々の流れから漂ってくる、乾いた冬の前触れの匂いを鋭く感じ取っていた。

 表通りからは馬車の立てる蹄の音が規則正しく響いてくる。秋が深まっていき、この街に大陸の冬は容赦なく駆け足でやってきて昭和十八年が終わりを告げるのだろう。勝利の時代は遠い昔になった。すさまじい工業生産力を誇るアメリカという若々しい国は、蒋介石への膨大な物資の支援を行い、民間人に偽装した軍人を多数送り込んで日本と戦わせて実質はわが国とは早くから交戦状態だった。あの宣戦布告へと追い込まれていく忍耐の日々の重苦しさは、華々しい真珠湾奇襲の戦果によって吹き払われたものだったが。

 戦局の悪化など信じたくはない。しかし、伝えられる数字は冷酷に彼我の決定的な戦力差を示して余りあるものだった。

 何としてでも勝つという精神至上主義だけでは勝利は覚束ないはずだ。

 じゅうぶんにわかってはいるけれど、かといって手を拱いているわけにはいかない。なんとかして戦勢挽回を試みて、なるべく有利な条件で講和に持ち込まなければならない。

 アメリカに一泡吹かせてやることが必要だ。どうしても。

 南方の占領地を奪われれば、次は飛び石のようにして台湾や沖縄を陥落させ、奴らはいよいよ本土を目指してくるだろう。

 泥沼のような国民党や八路軍との戦いはいつ果てるとも知れないのに、次第に頻繁になる在満部隊の南方転用によって関東軍の多くの兵舎はガラ空きになりつつある。ソ連との不可侵条約により北からの不安は幾分か和らいではいるけれど。

「ほら どう?似合う?」パールグレーにラメが入った縁無し帽を少し斜めに被った美奈子がウィンクしてみせた。手には淡い桜色のマフラーを持っている。

「うん とてもね」少佐は目を見張って微笑んだ。

「いいアクセントになるね きっと。たまにはこういう買い物もしないと」

「うん 選んでる時がね 楽しいよ。なんにもよけいなことは考えずにいられるの。目の前の品物とだけ向き合っていられるとっても素敵な時間だよ」

「なんにも考えないで、からっぽになって楽しむ時間もないといけないよ。桜色のマフラーだね。若葉と一緒に咲く山桜みたいな色でとてもいい」

「戦争が終わって東京に帰ったら、うんと丁寧に美味しいお弁当を作ってあげるから二人でお花見に行こうよ。酔っぱらってもいいからさ。その時は特別に許してあげる。この街の日々を、ひとつひとつ思い出して過ごそうね。花冷えで風邪引かないようにマフラーをしていこうと思ってこれを買ったのよ」美奈子の黒くて大きな張りのある瞳にショーウィンドーのライトが映っていた。

 この瞳を・・・少佐は思った。俺はこの瞳をこれから胸に抱いて戦うのだろう。たとえこの瞳から涙を溢れさせることになっても、力の限りを尽くして、この瞳のために戦うだろう。俺は軍人だから、死ぬ時は軍服を着て死にたいけれど、胸の奥深くにはこの瞳を抱きしめたままで倒れたい。この瞳は日本だ。俺の愛が一直線につながっていく愛する日本だ。大元帥陛下が統べたもう日本だ。欧米列強が数百年もの長きにわたって支配していた亜細亜に、身を殺して解放の狼煙をあげた誇りある帝国だ。

 この人を帰す本土に敵を上げたくない。故郷であり祖国である四季の恵みに満ち溢れた美しい山河を残してあげたい。この天の川の街は二人の宝石だ。将来どんな民族が住むようになったとしても、そこかしこに残る、淡く儚くとも鮮やかな美しさを刻んだ二人の愛の時は、永久に風の囁きとなって残るだろう。

 世界から戦いが去った日々に河畔を歩く恋人達の胸を、前触れもなく甘美で悲愁に満ちた不可思議な鼓動が優しく包む時、二人は思わず顔を見合わせながら、つないだ指に力をこめるのかもしれない。

 この美しい街で出会い、数奇な運命に翻弄されながら愛しあった二人の日本人がいたことを、地平線を吹き渡ってくる大陸の風と、楡の緑に降り注ぐ月光は語り伝えてくれるのだろうか。

 聖ニコライ会堂の鐘が鳴り始めた。

 二人は夕食に向かうために、辻馬車を拾って百貨店を後にした。

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