息が白くなるのにそう時間はかからなかった。人も馬も凍えるような吐息を洩らしながら暮らす冬が、天の川の街を再び占領した。街路樹はすっかり葉を落として少しでも陽射しを人々に届けようとしていたが、体を締め付けるような凄まじい寒気の前には無力だった。
満人街のレストランにもロシアレストランにもペチカが暖かく燃えていた。それはまるで再びめぐってくる春を待ちわびる祈りに捧げられる燔祭を準備しているかのように、絶え間なく、そして狂おしくさえ感じられるほどの炎を保っているように思われた。
年が改まろうとする直前、昭和十八年もあと数日を残すだけとなったある夜に、二人はモデルンホテルのシラムレンに座っていた。初めて出会ったカウンターで、今度は寄り添ってグラスを手にしていた。
ふれあっている腕がとても温かかった。少佐はハンカチを取り出すとカウンターで重ねた二人の手にそっとかけて指を微かに絡めた。伏し目がちのバーテンダーの方を見ると、秀麗な面持ちの彼は僅かに見上げた瞳を少佐に合わせると下唇を噛み締めながら視線を逸らした。まるでそうすることで、この美しい楡の街に迫る多くの別離の影から自分は身を隠すことができるかのように。
「ねえ、一日飾りはダメなんだよね?」
「なんだい?出し抜けに なんのこと?」
「お正月を迎える準備よ」
「ああ そうかあ。外地に来てからはすっかりそういうこと忘れてたよ」
「継志はパリっとした着物も持ってるんでしょう?家紋がグエ~っと付いたのをさあ」
「グエ~っとかどうかは知らないけど、少尉に任官した時に身内が作ってくれたのがあるよ」少佐はグラスのスコッチを干すと、やや仰向けに顔をそらしたままで笑って言った。
「なんでそんなこと聞くの?」
「ううん ちょっとね 思い出したのよ。おうちで師走にしてたことを。大掃除とかでクタクタになると、もう正月なんて来なきゃいいのにって思うのにさ、来てみるとなんとなく華やかで楽しくなって、お宮詣りに出かけたりお客があったりすると嬉しくなってきて」
「お年玉も貰えるしね」
「そうそう お屠蘇もビールもお酒も混ぜて楽しく酔っぱらえるし」
「おお すごいな 頼もしいお嫁さんになってくれそうだ」
「その強気な妹さんはお酒もいけるの?」
「どうかなあ?たぶん飲んでも飲まなくてもよく喋るよ。ともかく頭の回転が早くて口が減らないやつだからね。美奈子といい勝負だよ きっと」
「悪かったね!」美奈子は出会った夜のように弾けるように笑った。
純白のカーテンを引いたように冬一色に街を染め上げた雪の向こうから、遙かな地平線を満たしながら低く重く近づいてくる遠雷のように転属の時は迫っていた。
「来春は南方の守備隊へ配属で孤島防御に能力を発揮してもらうことになる。比島の保持と本土防衛に欠かせない島嶼だから特に望まれての赴任なのだ」上官がそう伝えた時に浮かべた、言葉とは裏腹な一種名状しがたい複雑な表情が少佐の網膜に焼き付いて離れなかった。
比島保持か。ということは現状から考えればパラオしかない。状況によっては来年中にも敵は上がってくるだろう。これまで、断片的にではあっても職務上接し得た情報からすれば、海空の支援をほとんど受けられないままでの孤立した戦闘になるのは間違いない。補給が途絶えればその後は・・・ますますのご奉公の時だ。
「そう言えば美奈子の着物姿ってまだ見てないね 洋装ばかりだ」
「うん 継志の軍服と同じだね」
「ああ そうか 内地で撮った写真を見せただけだったね 今度着てみるから見てくれよ 辛口の批評をどうぞ そのかわりに美奈子の着物もいつか見せてよ」少佐は微笑んだ。
「とっても似合ってると思ったよ 継志に」
「初めてここで逢った夜に、美奈子は俺のこと軍人みたいな商社マンだって言ったものね。鋭く見抜いたわけだ」
「あれはね 最初見かけた時から、なんとなく軍服が似合いそうなひとだなって感じたからだよ。軍人ってみんな同じように見えるけど、継志は特に板に付きそうに思えたの」
「まあね イイ男だなって思ったわけ。照れるよ 馬鹿ね こんなこと言わせるなんて」美奈子は頭を軽く少佐の肩にもたれさせて瞳を閉じると小さく呟いた。
「あれから迎えた初めての冬とはとても思えないね。もう何度も二人で春夏秋冬を繰り返したような気持ちがしてたまらないというのに、この天の川の街で過ごした四季はたった一度ずつなんだ」
「不思議だよ」言い終えると少佐はバーテンダーに空になったグラスをかざして軽く頷いた。
「指二本で、まるい氷にしてくれ」
「まるで地球みたいなまあるい氷にね」閉じていた瞳を開けると美奈子が小さく言い重ねた。いつのまにか涙が頬を伝って少佐のスーツを濡らしていた。
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