さつま通信

2011年4月4日月曜日

第3章002:オレンジビーチ - スリーデイズメイビー

 二人が逢うようになってしばらく経ってから、少佐は士官学校の後輩でハルピン憲兵隊に勤務する橋野大尉を郵政街の英国領事館近くの憲兵隊本部に訪ねた。事情を話すと大尉は彼女の夫の名前に微かな記憶があったらしく、その場で彼の指揮下の諜報網に二、三連絡を取ってくれた。

「その人は軍の任務に従事していたと思います」電話をかけ終えた後で大尉は言った。

「わが方の諜報網への切り崩しも最近は戦局の推移と共に激しさを増しておりまして」そう大尉は続けた。

 眉目秀麗が絶対条件とも言われた近衛兵への声もずいぶんとかかったという、涼やかに引き締まった端正な表情がやや翳りを見せていた。

 少佐は橋野が内地に残している婚約者である多恵の美しい横顔をふと思い浮かべた。橋野に、紹介するからぜひ会ってほしいと新宿に呼び出され、中村屋で過ごした夏の昼下がりが、多恵の大きく切れ長な一重の印象的な瞳と、清潔感に溢れる美しい口元と共にありありとよみがえった。

 勤務先である日本郵船に始まった思想信仰団体である明朗会の会員に多恵はなったと聞いていた。現内閣への批判精神を失っていない思想監視対象団体に婚約者が在籍していることは、憲兵将校の道を誠実に歩んでいる橋野の心にいつも重くのしかかっているのではないかと、少佐は憲兵職種を現す軍服の黒い襟章を見つめながら思った。

「とてもいいスーツですね。商社マンそのものですよ」努めて明るく振る舞おうとでもするかのように大尉は悪戯っぽく大きな二重の瞳を細めながら言った。

「これは本当の商社マンにたいへん失礼ですが」と、笑いながら彼は続けた。

 少佐はピンストライプのチャコールグレーのスリーピースにラウンドカラークレリックのインディゴブルーのダブルカフスシャツを着て、襟元は淡いレモンイエローのタイを結んだいでたちだった。

「憲兵隊にはいつもお世話になっております」と苦笑混じりに返すと部屋の空気が和んだ。

「近いうちに一献と言いたいところだが、互いの職掌柄、雁首揃えてヤマトホテルへでも繰り込むわけにもいかない。聖戦完遂後にまた銀座でおおいに楽しもう」ここでの長居は避けなければならない。それに彼とこうして向かい合っていると失った妻子が思い出されてしかたがない。あれはなんとはかなく断ち切られた短い夢だったことだろうか。

 では調査の結果を待つと言い残すと、立ち上がった大尉の敬礼に軽く目礼を返して少佐は建物を出た。郵政街大通りは、どこかの路地から漂ってくるロシア料理の香りを乗せた春めいた風がゆっくりと流れていた。

 調査を依頼してからまもなく連絡は来た。美奈子の夫はやはり敵性勢力への潜入任務に従事していて、軍要員と共に匪賊との交渉にあたっていた時、突発的に交戦となり死亡し、遺体収容もできなかったとの内容だった。
    
 しばらく迷ったが彼女には軍側の情報としても遺体収容ができない「死亡推定」だったと伝えた。同時に自らの身分と任務も明かし本名も伝えた。迷いの中に亡夫への嫉妬が滑り込んできたことを少佐は自らに深く恥じた。自分には予想のつかない哀惜に彼女が混乱し、彼から去ってしまうのを恐れたことを。
           
 このまま死者とわかった夫に希望をどこかでつながせているのも酷な話だったろうが、死を知らせることで亡夫への未練を断ち切らせ、目前の恋を失うまいとする身勝手で卑劣なもくろみから調査を俺は依頼したのではないか?いや、あれはただの寂しさからの親切心・・嘘を言うな 惹かれたくせに。そんなせつない自責の念が少佐を苦しめた。

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