さつま通信

2011年4月9日土曜日

第3章004:オレンジビーチ - スリーデイズメイビー

 天の川の街で迎えた初めての、そしておそらくは最後の夏。二人は鉄道クラブの野外音楽堂へ、白系ロシア人達に交じって恒例のシンフォニックスオーケストラの音楽会を聴きに出かけたりした。クラブ内のロシアレストランでの食事も楽しく、激しい戦局からひととき目を転じて、去りゆく異国でのいとおしい夏の密度を二人は少しでも高めようとした。

 松花江対岸の太陽島へ海水浴に行くこともあった。ヨットクラブの船を遠くに見つめながら、伸びやかな姿態を水着に包んだ美奈子と遊び、泳ぎ疲れるとビーチパラソルの下での浅くて心地良い眠りを楽しんだ。

 時には、賑やかな白系ロシア人達と連れだった日本人貿易商の一行と水辺の休暇を過ごしに訪れている橋野憲兵大尉とすれ違うこともあったが、互いに視線を合わせることもなくそれぞれの任務と時間に自らを委ねるのだった。

 晩夏の涼風が街の喧噪を微かに引き連れながら窓を開け放した部屋に忍び込んでくる夕暮れ、二人は少佐の部屋の大きなソファに身を横たえていた。いつしか週のうちの多くの夜をこうして共に過ごすようになっていた。

 カーテンがそよぎ、窓のすぐ近くにそびえる楡の木の枝が影を作っていた。

「マカロニとサラダ、とってもおいしかったよ」長い髪を波打たせて、少佐の腕に身をあずけた美奈子が言った。

「料理も上手ね。軍人ってイメージとどうもぴったりこないなあ。軍服姿もまだ見たことないし」瞳を閉じたままで、体からすべての力を抜いたようにして形のいい唇だけが動いた。

「軍人だから料理が下手っていうのも変な話かもしれないよ。でも、俺の家は特別かもしれない。父がよく厨房に入っては職人顔負けの腕を振るってたからね。そのくせ男の子達には厨房に入ることを厳しく禁じてた。変だろう?」

「お父様はお元気なの?」

「うん 相変わらず毎朝素振り二百本だろうな」少佐は警察官というよりは武芸者とでもいった方が似合いそうな父親の風貌を思い出して片頬で笑った。

「継志は一番上?」

「いや 次男だよ。兄は香港攻略戦で戦死した。妹は両親と一緒にいるよ。気がとても強いやつでね、あれはうるさい小姑になるだろう きっと」

「私も負けてないから」瞳を開けて美奈子は軽くにらむ真似をしてみせた。

「楽しみだ」少佐はそう返すとコーヒーを淹れるために起きあがった。

 馥郁とした香りが部屋に広がり始め、夏の終わりの風とミックスされて、単純でいて安心と幸福に満たされた雰囲気を醸し出している。ここには警戒も猜疑も確認も推測も必要がない。不安と焦燥に溢れた未来から切り離された時間がたゆたうように流れている。

 ソファに身を横たえたままで待っている美奈子を少佐はいとおしく思った。まどろむような甘美な余韻に浸っている時に、慌ただしく日常の立ち居振る舞いに戻ってほしくはなかった。

 陽は落ちたが灯りは点けないままにしておいた。もうすぐ月が昇るだろう。馬車の音が響く、この国際都市を降り注ぐ月の光が照らし出す。今はもう時代遅れになってしまったアールヌーボー様式の曲線に満ちた建築デザインが幅を利かす街を、ユダヤ人や白系ロシア人や鮮人や中国人や日本人が、路地から路地へと歩みを重ねていく。至る所に緑が配置された街、多くの日本人の才能が整然とした街並みを美しくデザインして、帝政ロシアがかつて着手した街作りを見事に発展させている。

 ヨーロッパでも太平洋でもアジアでも、世界中が戦いの渦に巻き込まれている。なのにこの部屋の静寂と安定と、不確かではあっても希望に縁取られたような心和む幻影はなんだろう?俺は今 どうにかして戦争と幸福を調和させようと努めている。もう人を愛することはできまいと頑なに諦め、軍務に打ち込むことで気を引き締めることだけを考えていた時に、まるで荒蕪地の上を豊かな実りを予感させて吹き渡っていく風のようにこのひとが現れた。

失いたくはない。

護らなければならない。

 逝ってしまった妻子や、このひとが愛した夫のためにも、強く深く確かな愛を二人して刻まなければならない。俺の愛する人々は、故郷の、日本の一部だ。そして、大日本帝国が高く掲げた東亜解放の理想に包まれている存在だ。この命を捧げるだけの価値がある。

 少佐は自分が長いこと思い悩んでいたことに気づいた気がした。

「どうしたの?コーヒー冷めちゃうよ。それもいいけどさ」

天井を見つめたままの美奈子が言った。

「継志が考えてたこと美奈子が当てようか?」

「え?」トレーを支えている指先に思わず力が入った。

「次の転勤先にどうやって美奈子を連れていこうかな いけるかな 図星でしょう?」身を起こして顔を向けながら髪をかきあげて美奈子はことさらに楽しげに言った。

「すごいね 読心術を心得てるの?そのとおりだよ」少佐は口をすぼめるようにして目を丸くしてみせると、そっとテーブルにコーヒーを乗せたトレーを置いた。

 美奈子 あのね 俺はまた誰のために死ぬのかを確かめることができたよ。おまえに生きてもらうためにも俺は雄々しく戦って死んでいこう。心のどこかで必死に探してたんだ おまえと出会うまで。胸の底深くに無理に抑え込んで、どうにも整理がつかないままで、もう消してしまおうとしていた願いだったよ。

 忠義を尽くして大君の御為に死す。それだけでいいと思い定めていたけれど、思いがけず心を奪われてしまっていた。

 たった今それがわかった。おまえは、俺が赤誠をもって陛下へ捧げる忠義と一直線につながっているんだね。

「まだ灯りはつけないままにしておくよ」少佐はいたわるように言った。

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