二人が並んで腰を下ろしたベンチから、サボール 中央寺院の尖塔が見えた。ネギ坊主のような塔をいただく聖ニコライ会堂。この寺院を中心にロータリーができている。楡の都と呼ばれるこの街は、暮れなずむ夕景色の中に身を横たえて、星々の投げかける優しいまなざしにどこか恥じらっているように思えた。
「ねえ 奥さんはどんなひとだったの?」美奈子は星の輝きを写しているように僅かに潤いをたたえた瞳を向けて小さく尋ねた。
「ごめんね 女って気になるのよ そういうことが」指先の紫煙を見つめたままの少佐に気づくと美奈子は夜空を見上げた。
「最初この街はスンガリって名前だったらしいよ」煙草を消すと美奈子の問いには答えずに少佐は言った。
「満州語でスンガリウラって天の川のことでね、そこから取ったらしい。だからここは天の川の街なんだ」
星々が流れ落ちるようだ。寺院から響いてくるのは鐘の音 その余韻が街を滑らかな肌で包み込み、昼の喧噪と人々の猥雑な思惑を浄めようとしているように思える。
「強くて脆いひとだった。今を生きる自らの夢と、俺との暮らしを重ね合わせようとして気持ちに無理を重ねてしまうような」
「こんなこと初めてひとに言ったよ。やっぱり美奈子は魔法使いらしいね」少佐は微笑んだ。
「どんなひとだろう?貴方と一緒に暮らすのにふさわしいひとって」美奈子は足元に視線を落として言った。
「場持ちがうまいひとがいいよ 部下や同僚と家で飲む時のね。また訪ねたくなるような雰囲気を自然に作れるひとがいいな。あっさりしてるけど情がある女性で、安心して子供の躾を任せられるひと。自分のいたらなさを棚に上げて言わせてもらえばそんなところだよ」
「あたし 客あしらいは上手なのよ」
「でも失礼なヤツは追い返しちゃうかもしれないけど」少佐の瞳をのぞきこむようにして夜目にも白い歯を僅かにのぞかせて美奈子は笑った。
「うん それは頼もしいね」
繰り返される日常に堆積するという倦怠の味わいを俺はまるで知らない。かつてはそんな営みを想像の世界だけで軽蔑しきっていたというのに、今この心に忍び寄ってくるありふれた暮らしへの憧憬はなんだろう?明け暮れ一緒に食事をしたのは僅かな期間の出来事だったから、夫婦の時はもう幻のように消え残る記憶の断片でしかない。
倦怠か 倦怠とはなんだろう?それは甘美さを含むのか?鈍痛を覚えながらも、いとおしさを忘れないでいられるものなのか?
味わったうえで と少佐は思った。放棄するなら味わったうえでそうしたかった。そうしたかったとは何だ?未来に挑む前から諦めてどうする?でもそれは身勝手な願望で、このいとおしいひとをいっそう不幸にしてしまうだろうか?
「冗談よ」真顔になって美奈子は言った。「忘れてね 今の話」
「冗談で言っていい話じゃないと思うけどなあ」わざと語気を強めてそう言うと、優しく微笑みながら少佐は美奈子の手を取って引き寄せて冷たく小さな手を両手で一瞬包み込むようにすると、左腕を肩へ回して抱き寄せながらそっとくちづけた。洗いたての苺のような味わいが広がり頬が僅かにふれあう。彼女は少佐に抗いはしなかった。
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