さつま通信

2011年4月13日水曜日

第3章005:オレンジビーチ - スリーデイズメイビー

 駆け足で背中を見せる夏を二人が惜しむ間もなく、モデルンホテル支配人の長男で高名なピアニストのセミョン カスペが身代金目的の白系ロシア人ギャング団から誘拐される事件が起こり、満州警察や憲兵隊、そして特務機関は多忙を極めた。父であるユダヤ系の支配人が要求を拒絶した結果、息子は惨殺されて発見され、多くの機関が介入したこともあって後味が悪い結末となった。

 特務機関に入ってくる各種情報では、連合軍がイタリア本土に上陸したこと、対ソ戦の要衝であるオリョールをドイツ軍が撤退したことなどが信じがたい戦況として目を引いた。日本は既に今年の二月にはガダルカナルを失い、五月にはアッツ島が玉砕していたのではあったが、断片的にしか把握できない情報をつなぎ合わせるだけでも、日本が抱える広大な戦線全般を覆い始めた暗影を振り払うのは容易ではないことが察せられた。

 日本とは桁違いに優れているらしいレーダーにより海軍得意の夜戦が不利になってきていることや、人力に頼るのが当然の飛行場整地などの作業に、アメリカは土木機械を投入して日本には到底考えられないスピードで工事を完成させてしまうこと、無尽蔵に戦線全般に送り込まれてくる航空機と潜水艦によって日本の海上補給線は寸断されて麻痺が始まっていることなど、耳を疑うような情報ばかりが散見された。また、陸軍とは違って海軍の暗号がもしかしたら敵に解読されてしまっているかもしれないことも。

 どれもこれも信じたくない情報ばかりだったし、情報源の信憑性を確かめるための精査もなかなか追いつかない中での単なる推測に過ぎなかったが、開戦前に朝野を挙げての批判を浴びていた対米戦回避論者達が一様に主張していた、アメリカの強靱で膨大な工業生産力と、それを基盤とする科学力を統合しての戦争能力発揮を想像する時に、少佐には日本にとっての不利な情報があながち心理戦の産物とばかりも思えないのだった。

 これはかなりの苦戦だ。不敗を誇ったナチスドイツも、スターリングラードの敗北以来、ナポレオンを彷彿とさせる退勢を見せているし、数字で見る限り、日本の商船隊の損耗率はかなり高い。いくら旺盛な戦闘精神と必勝の信念において比類無きわが帝国陸軍も必要物資の補給が続かなければどうだろうか?多数の商船が沈められているということは、前線への補給物資や兵員の大半が海に消えているということだ。

 少佐は、これまで戦いに一度も敗れたことのない祖国日本の強さを信じる点において決して人後に落ちるものではなかったが、特務機関に配属されて多種多様な情報に接するようになってからは、日本が流し続けている血液の量はもはやその限界を超えようとしているのではないかとの疑念を払拭できなくなってきた。

 この夏から、士官学校等においては「ア号教育」という名で対アメリカ戦の教育がようやく始まったと聞く。従来の仮想敵はずっとソ連だったわけで、教育にあたる教官達はノモンハンの体験を持つ者が多く、実戦に即した訓練をある程度は施すことができたのだが今はどうだろう?アメリカ軍の戦法を熟知した教官などいるはずもなく、教育の実施に戸惑っているであろうことは容易に想像できる。編成、装備、戦法、訓練、演習地の選定等総てにおいて、対アメリカ戦をほとんど考慮してこなかった日本軍がはたして間に合うのか?

 戦局への懸念は日を追って重苦しさを増していくように思われ、やがて勤務を離れた時間も心にまとわりついて離れなくなってきた。

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