さつま通信

2011年4月14日木曜日

第3章006:オレンジビーチ - スリーデイズメイビー

 松花江畔に日本が整備したリバーサイドパークは市民に好評だった。ロシア人の若夫婦が切り盛りする観光亭という名の喫茶食堂は、ロシアの農家風様式で造られ、ある意味でハルピンの象徴的な存在となっていた。

 観光亭の座り心地のいい椅子で、少佐が日々の職務で目にした幾多の情報をつなぎ合わせながら戦局の行く末に思いをめぐらしている休日の昼下がり、向かいで黒パンを小さくちぎっては口に運ぶ美奈子は、テラスへと深まる秋の気配を届けてくる松花江からの風に長い髪を弄ばれないように小粋なアップにまとめていた。

 パールシルバーのシルクのブラウスにツウィードのワインレッドのジャケットをはおり、金色のスカーフをゆるやかに結んでいる。

 冷たくなったシチューをスプーンで掬ったまま手を休めて、彼女は少佐を見つめた。この人の力強い眉と鼻筋の通った表情に現れている憂いはなんだろう?私達のこと いや、それだけじゃない。というか、私達の明日に直接関係することに違いない。

 少佐は、やや厚手の、光沢がある毛織物のダブルスーツに身を包んでいた。ライトブラウンの生地にシャツの淡いモスグリーンがよく映え、スーツと同系色に濃いブラウンの小さなドットをあしらったタイが控えめながら都会的なアクセントを全体に添えていた。

 ゆっくり立ち上がると少佐はカウンターへと近づき、流暢なロシア語で夫婦にハーモニカを吹いてもいいかと聞いた。二人の微笑みが返ってくると、窓際のテラスへと出て静かに吹き始めた。

 曲はドリゴのセレナーデだった。か細くて美しく、哀切を帯びた音色が大河からの風に立ち迷い、ためらいながら店の中へ忍び足で入ってくると、美奈子の耳たぶに優しい指先でふれ、慰めに溢れた魔法の響きとなって不安に脅える彼女の胸の奥へと滑り込んでいった。

 いつしか若い夫婦も仕事の手を休めてカウンターから聴き入っていた。繰り返し奏でられるセレナーデは、祈りの声にも似て、ともすれば頑なに殻を閉じようとする感情のこわばった襞を解きほぐすように広がり、失望への哀しい抗いを滲ませながらも、大陸の風に抱かれて安堵の表情を微かに見せるようにも思われた。

 吹き終えて、我に返ったようにハンカチでくるんだハーモニカをポケットにしまうと、少佐はいつのまにかテラスに出てきてセレナーデを聴いていた美奈子の半ば放心したような美しい顔を間近に見つめた。

「踊ってよ」不意に少佐の胸に強く顔を埋めて美奈子は言った。他に客はいなかったが、少佐がやや狼狽したように若夫婦を見ると、夫婦は唇を噛み締めながら目をうるませて何度も頷いた。

音楽はなかった。少佐は美奈子の腰と肩に手を回すと強く抱き寄せて「チークタイムだよ」と耳元で囁いた。彼女のいとおしい胸の鼓動が乳房を通して感じられた。二人は二人だけに聞こえる、宝石のような束の間の季節を彩っていた音楽に身を預けながら小さく左右に体を揺らし始めた。

 いつかこうしたことがあったろうか?二人は前世でも出会っていたのかもしれない。次に生まれてくる時はどうだろう?今のこの契りは、まるで朝風に吹き払われる河の水面にかかった薄霧のように、二人が世を去れば消え果てるのか?戦いの術を世界中の人々がもはや学ばない時代は来るだろうか?そんな時代に生まれて、俺達はまためぐり逢うことができるのだろうか?その時こそは・・・いやダメだ まだ考えられない。かといって二人が今考えられることはなんだ?できることはなんだ?大きく真っ黒な口を開けて待ち受ける未来へ立ち向かうことはできるのか?このひとは俺をずっと待っていた。おそらくは一度限りとなる、共に過ごす季節を全身で慈しみながら、俺が部屋に戻ってくるのを毎日ただ静かに待っていてくれた。

「もう二度と吹かないでね 今の曲」

「私 聴きたくない」ほとんど聞き取れないほどの小さな声で美奈子は言った。

「あんな音色に包まれたら寂しくてたまらなくなるじゃないの 継志の馬鹿!」肩に回されている腕に力をこめて顔も上げずに続けた。

「ごめん あのセレナーデしか吹けないんだ。そんなつもりはなかった。もっと楽しい曲が吹けたらよかったね。そう ハメルンの笛吹男みたいに、聴いてる人達が踊り出すような不思議な曲が」

腕を解くと少佐は軽々と美奈子を抱き上げてテラスのベンチに腰かけながら膝の上に横向きに座らせると彼女の顔を覗き込んだ。

頬を流れる涙にくちづけると「ハンカチを取り出す暇もなくて失礼ですが」わざとおどけた口調で少佐は言った。

「俺達の天の川の街に、またすぐに冬がやってくるよ。これから百貨店へ行こう。そろそろ冬支度をしないといけないからね」少佐の首に両手を回して瞳を閉じたままで、頬に額を押しつけた美奈子は黙って頷いた。

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