さつま通信

2011年4月3日日曜日

第3章001:オレンジビーチ - スリーデイズメイビー

 まばゆいほどの南十字星が美しい光芒をペリリュー島に投げかけている。

 鵤 継志少佐は飛行場付近の部隊巡視を終えて司令部に戻る途中、ほとんどがナパームで焼き払われて黒焦げになり、今は僅かしか残っていない樹木の間から澄んだ南の夜空を見上げた。

 内地では見られない力強い星の輝きだ と少佐は思った。中隊長に補職される前に娶った妻の面影が浮かんだ。礼装に身を包んだ華やかな挙式と熱海への新婚旅行、厳しい軍務の合間に心待ちにして迎えた出産と、あっけない妻と初子二人の死。

 周囲は外地へ赴く前に何度も再婚を勧めたが、彼はそういう気持ちが湧かないままで支那大陸へと海を越えた。ハルピンで特務機関の任務に従事している時、商社員や軍人、軍属、また、多種多様な人種が出入りする歓楽街にも職掌柄よく足を向けたが、そんな日々に出会ったのが美奈子だった。

 昭和十八年の二月初め、体が軋むほど寒さが厳しい夜に、中央大街 キタイスカヤ沿いのモデルンホテルのバー「シラムレン」で、鮮人の情報提供者と待ち合わせてカウンターに座っていた少佐が、約束の時間を過ぎてもなかなか現れない相手に少し苛立ちながら二杯目のウィスキーを注文した時に、さっきから少し離れてカウンターに座っていた女が「ねえ あなた軍人さん?」と声をかけてきた。

「いや 商社員だ」

 野外での訓練時に帽子のひさしで隠れる額だけが白い、軍人特有の日焼けはとっくに消えたはずだし、挙措動作からも軍人のムードは消しているのにと内心訝しく思いながら少佐は無愛想に短く言葉を返した。

 日本人だろうか?この街には間諜がウヨウヨしている。何か特別な注意を引いてしまったのなら、この場所はもう使えないが・・・

 「ふーん」気の抜けたような声で小さく女は言うとプレーヤーズの煙を吐き出した。プレーヤーズ、アフリカ戦線での英国軍の煙草。足の長い伸びやかな体にギャバジンのクリーム色のスーツを粋に着こなしている。眉丘がやや張り出したところが直感の強さを感じさせると少佐は思った。

 「日本人か?」と、あらためて聞いた自分自身を少佐は不思議に思った。今までになかったことだ。素性もわからない女に不用意に言葉をかけるなんてこれまでなら考えられもしないことだったのに。

 いや、これは任務遂行上の必要な確認だ。少佐は自分に無理に言い聞かせながら女の横顔を見つめた。

「ふん なんか偉そうな物言いだね。まるで軍人みたいな商社員だこと」

スコッチのグラスを手にしたままバーテンダーの後ろの大きなミラーを真っ直ぐに見つめながら彼女は言った。

「それは失礼した。軍務経験はあるよ。胸を少しやられたことがあってね、士官学校も出たのにお払い箱さ。」

少佐は努めて優しく言葉を返した。

「いいのよ なんだか似合わないよ あんたみたいな男が私に謝るなんて」これまでとはうって変わって、彼女は体全体で弾けるように明るく声を立てて笑った。波打つような長い髪が煌めくように揺れて、ムスクと柑橘をミックスした甘い香水の芳香が周囲に優しく広がった。

「日本人よ」体を左へ向けると少佐の瞳を覗き込むようにして言った。形のいい唇の端にはまだいくらかの笑いを含んでいる。その伝法な口調とは裏腹に、たおやかな女性らしさを胸の奥に秘めたひとなのではないかと、少佐は優しい光をたたえて輝く大きく美しい瞳を受け止めながら思った。

「丸い氷が好きなの?地球みたいに」

「よく見てるのね」

「こんなに近ければ誰だってわかるよ」

「女なら誰でも観察するの?」

「いや そんなわけじゃないけど」思わず少佐は白い歯をこぼれさせて笑った。

「ふーん じゃあ必要に応じてなの?」眉間に軽く皺を寄せて楽しそうに彼女は聞いた。

「つまり今はその必要を感じたってわけね  じゃあ良かった」

言い終えると彼女はまた正面を向いてグラスを傾けながら僅かに微笑んだ。

なぜこの街にいる?急にそう聞いてみたくなった自分にやや狼狽した少佐は目の前のグラスを一息に干した。

「違う店に行かない?ここにもう用事がなくなったのなら」彼女は何枚かの札を手早くカウンターに置きながらバーテンダーに軽く頷いて言った。

 店を出た二人はしばらく大通りを並んで歩いた。辻馬車が通り、蹄が道路を噛む音が響いて通り過ぎていった。中国十四道街の満人が経営する飯店へ入り軽い食事を取りながら、目黒で生まれたこと、父親の仕事の関係で全国を転々としながら育ったこと、満州へは満州鉄道の関連会社で働く夫に付いてきたことや子供はいないことを彼女は話した。

 プレーヤーズが一箱空になった頃、午前二時を回った壁時計を見上げて少佐が「もう遅いよ ご主人に連絡しないでいいの?」と言うと、ウオッカの酔いで僅かに頬を染めた彼女は「どこに?」と微笑んで「亡くなったのよ たぶん」「半月の出張予定で奥地へ出かけたのにもう半年も音沙汰がないの。会社も始めは慌てていろいろ手を尽くしてくれたけど、最近になって本人の消息が全くつかめないからって見舞金と一時金をよこして行方不明のままで退社扱いになったわ」と、少佐の肩越しにブルーのインド綿の壁飾りを見つめながら答えた。

「じゃあ 君もこの街で一人ってことか」斜向かいのテーブルでさっきから長く話し込んでいる白系ロシア人の夫婦らしき二人の会話に習性で注意を払いながら少佐は聞き返した。

「君もって?あなたは内地にご家族を残してるんでしょう?」

「いや」

「そうだったの」彼女は粗い織りのテーブルクロスに視線を力無く落とした。

 それ以上問いつめることをしない女を少佐は不意にいとおしく感じた。まるで荒蕪地を潤しながらひた走る奔流のように突然の感情が吹き上がって溢れ出し、これまで二人を隔てていた夜の扉を抗えない大きな力が押し開けていくようで、もう長いこと忘れていた憧れに満ちた夏の香りが胸の奥底まで広がっていく気がした。

 いや、これはただの思いこみなのだ おそらくは一年以内に転属となる身の気まぐれ。

「軍から請け負う仕事もあるから俺も調べてみるよ」

「何かわかったら知らせるから」灰皿に視線を落としたまま答えない彼女に少佐は名刺を差し出した。 

来島 貴と刷り込まれている任務上与えられた名刺だった。

「教えてくれないか?君の名前を」

「今はまだ嫌よ」彼女は顔を上げるとまるで悪戯小僧みたいな幼い笑顔を浮かべ、野球帽を横向きに被れば似合うようなあどけなさを覗かせた。

「そのうち電話するわ」

言い残すと席を立ち、一度も振り向かずに外へと出て行った。

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