さつま通信

2011年4月17日日曜日

第3章009:オレンジビーチ - スリーデイズメイビー

「もうアメリカと戦争になって3年目ね」

「ずいぶん旗色が悪いんじゃないの?」美奈子は続けた。昭和十九年の春が行こうとしていた。

 出会った初めての夜にバーを出てから立ち寄った飯店で、最後の夕食を取り終えて二人は向かい合っていた。出発が明日に迫っていた。

「美奈子 内地へ帰る準備は終わった?」

「うん あんなに毎日みたいに言われたんだもん。いとしの少佐殿は戦争が終わったら末永く一緒に暮らそうと言ってくださるし」彼女は口調を変えておどけてみせた。

「もう内地の桜は終わったかな?」

「日本は南北に長いのよ まだこれからって土地もあるわ」

「軍律違反だが」と、彼は言葉をいったん切ってから彼女を見つめた。「明日はフィリピン経由でパラオ方面へ向かうんだ」言い終えると大きく息をついた。

「アメリカが相手だよ」

「パラオってきっと暑い島だよね?」

「そうらしい」

「押し寄せてくるのね?」

「ウンザリするほどの大軍だろうな フィリピンを奪い返すためにあいつらも必死さ」

「大丈夫なんでしょう?」

「たくさんの飛行機と船が厄介だよ」

「どういうこと?」

「島の周囲の海と空を奴らにすべて支配されるはずだ」

「連合艦隊が来てくれるんじゃないの?」

「そう願いたいが」少佐は言葉を切った。

「もし来ても島に近づけないだろう 戦が終わるまでは」

「きっと勝てるよね 追っ払わないと!」

「ああ もちろん! 美奈子を護らないとね」

 鉄が豪雨のように降り注ぐ間は、ひたすら地面に潜っているしかない。

 砲爆撃が止めば海岸へ大軍が殺到してくる。砂浜にひしめく第一陣へ砲火を思い切り浴びせかけたら、あとは後退して地下陣地や洞窟陣地で持久戦闘をやるしかない。弾薬と糧食の補給はもちろんのこと、医薬品の確保や武器の修理もままならなくなるだろう。戦車と重火器を大量に陸揚げされて橋頭堡を築かれれば小銃と手榴弾や擲弾筒だけでの阻止は不可能に近くなってくる。艦砲射撃と空爆によって我が方の重火器は早期に潰されてしまうはずだ。その後は・・・追いつめられての小人数での斬り込みを極力反復しながら、一日でも二日でも、敵がフィリピンや沖縄へ、そして内地へ上がるのを遅らせるしかない。生きては帰れない最後の戦いだ。美奈子 美奈子 おまえにそう伝えられるはずもない。この街でおまえにめぐりあえて俺は心から幸福だった。生きてくれ 俺の残りの命をあげよう 俺にもう一度 人を愛する気持ちを思い出させてくれてありがとう。

「じゃあ 明日でひとまずお別れだね 武勇伝 たーくさん聞かせてね 美奈子 楽しみに待ってるよ」屈託のない笑顔でそう言いながら彼女はコバルトブルーのハンカチを差し出した。

「千人分以上の想いを込めたからね アメ公の弾なんか絶対に当たらないよ」

 広げると中央の黄色い円の刺繍の中に「継志」という文字が赤い糸で縫い取りしてあった。それは日の丸に似たデザインだった。

「海に月だね 百人力だな 大切にするよ」少佐は微笑んで丁寧にたたむと軍服の内ポケットにしまった。

「東京へ帰って落ち着いたら、頼んだ品を実家へ届けてくれ。二人の写真も手紙も送ってあるし、好敵手の妹とも婚約者としてご対面だよ」

「うん 家財道具も選んどくから」

 生き生きとした瞳に涙はなかったが、彼女の口元を狂おしさの影が一瞬かすめ、青い煙を引くプレーヤーズを挟んだ細い指先が細かく震えた。

 少佐はふと、敵に内通していた確証をつかんだため処断しなければならなかった満州族の若い男を郊外で自ら射殺した時のことを思い出した。あの時も、こんなふうに煙草を挟んだ彼の指先が細かく震えていた。あいつは最後まで堂々としていて命乞いをしなかったな。

 灰がぽとりとテーブルに落ちた。

「それから、何か困ったときは東京憲兵隊の橋野 猛大尉を訪ねてくれ。師走に転属してここから離れた。美奈子のことをよく頼んであるからね。誠実で生一本ないい将校だから必ず力になってくれるよ」
放心したような美奈子の手からくすぶる煙草を取ると灰皿で揉み消して少佐は言った。

「これだけの戦争だから何があるかわからない。万が一、東京も空襲を受けるようになったら大磯の親戚を頼って疎開してくれ。これから敵が首都を大規模に叩いてくることはじゅうぶん予想されるからね」

 部屋に戻り、ベッドに入っても二人は黙しがちだった。胸で支える美奈子のいとおしい重さを確かめるように、少佐は彼女の髪の香りに身を浸しながら限りなく優しい漣のような愛撫を繰り返した。千の唇が互いを求め、僅かでも二人の間に隙間を作らず、まるで彼女のすべてを自らの内に塗り込めてしまおうとでもするかのように強く抱きしめながら。

 もう言葉はなかった。もはや言葉はどれほど重ねてもなんの意味もなかった。このベッドは、否応なく未来へと流されていく丸木船のようで、強い流れに抗う術を持たない二人は闇に漂う命の戦きにただひたすら身を委ねているしかなかった。

 美奈子のこめかみに唇をあてたままで、淡い月光に照らされながら波打つ髪を間近に見つめていると、海原が急に部屋いっぱいに広がっていく気がした。コバルトブルーの輝きがシーツを染め上げて、遠い懐かしさに溢れたいとおしい色彩の花びらが空から海に舞い降りたかと見る間に、それは水面に散り敷かれた桜の絨毯となって、もう久しく吸ったことのなかった潮の香りが二人をゆっくりと包み込んだ。
海に舞い散る桜は、まもなく久遠の道を行こうとする若い兵士達が胸に抱く、郷土と愛する人々への想いを可憐でたおやかな姿に乗せながら南の風に哀しく身を任せているように思えた。

 郷愁も未練も恐怖も、尽きぬ哀惜の渦に巻き込まれながら輪郭を失っていき、奥深い命の詠唱が希望を眠り込ませるように低く響き始めて、とうに涙さえ枯れてしまった二人の嘆きを弛緩させ、傷みをやわらげてくれる気がした。

 明け方の光が部屋に差し込み始めた時、浅く重苦しい眠りから二人は目覚めた。体温であたためられたシーツは、大陸の晩い春の夜明けの冷気を拒絶しながら二人を懸命に護ろうとしているかのようだった。

 楡の街での最後の朝食を終えると、少佐は久しぶりの軍装を整えた。軍服姿を一瞥した美奈子は無理に微笑むとすぐに目を逸らして鏡台に向かった。

「なーんだ 褒めてくれないの?」努めて明るく背中に声をかけると、鏡の中の美奈子と目が合った。

「とってもお似合いよ。 でもさ 一緒になったら毎日見ることができるんだから、褒めるのはその時に取っとくわ」鏡の中の唇が動いた。

「楽しみにしてるよ」ソファから立ち上がって美奈子の背中に両手を置きながら少佐は言った。

「玄関までしか行かないわ やっぱり私」

 振り向いて見上げながら彼女は肩に手を重ねて呟いた。

 涙はなかった。それは、別離の狂おしさも激情も、優しい光をたたえた瞳の奥へ深くせつなくたたみこんでしまったあとの落ち着いた声だった。

「通りには出ないでお見送りするからね」

なぜ?とは少佐は聞かなかった。ただひたすらに男らしく振り向かずに行こうと懸命に思った。

「じゃあ元気で行ってらっしゃい!私のいとしい少佐殿」

 少しうわずった愛するひとの言葉に、目深にかぶった軍帽のひさしに軽く手を当てて敬礼すると、いとおしい声の余韻を耳の奥に大切に残したままで少佐は踵を返し、ドアは閉めずに急ぎ足に階段を降りると表通りに出た。

 いつもの朝の雑踏に高鳴る胸を抑えて紛れこみ、二階のカーテン越しに見送っている美奈子の視線を背中に痛いほど感じながら、この天の川の街で大切に積み上げてきた二人の時間を思い切るように足を早めた。

 あれはもう、遠い遙かな朝だったような気がする。

 胸ポケットに入れてあるハンカチの感触を確かめると、司令部入口で立哨中の衛兵に厳正に答礼しながら少佐は口元を引き締めた。

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