さつま通信

2011年3月21日月曜日

第1章004:オレンジビーチ - スリーデイズメイビー

 いつも小さな弟を迎えにやってくるアロウという少女がいた。肌の色がやや薄いところからも白人との混血らしく、彫りが深くて眉丘がやや張り出し、いかにも勘の鋭そうな美しい風貌で、長いしなやかな髪を南風になびかせながら、その淡いグレーの瞳に空と海の鮮やかな色彩を写し取るかのように、生粋の島民とはどこか違った雰囲気を漂わせていた。

 「アロウのおとうさんは今どこにいるの?」兵士達に新鮮なフルーツを差し出す時などに全身で好意を現しながらも、どこかぎこちない様子で伏し目がちにしているアロウに北村候補生は優しく聞いた。この少女を見ていると郷里に残してきた妹が思い出されてならなかったし、刻々と迫り来る戦いへの内心の不安を、彼女の可憐な仕草や清潔な存在感が打ち消してくれるような気がしてならなかった。

「もうずっと前に船に乗ってドイツへ帰っていったの」

「弟が生まれたらすぐに」長い髪を指先に巻き付けながら彼女はゆっくりと言った。

「じゃあ、それから一度もここへは帰って来ないんだね?」北村は胸を突くように急に湧いてきた寂しさが声に滲まないようにしながら尋ねた。

「ええ もうずいぶんと経つんだけど」見上げた瞳を北村に一瞬ひたと真正面から合わせると、アロウはすぐに唇を噛み締めてうつむいた。

「おとうさんはきっと忙しいんだ。戦争が終わったらアロウ達に会いに必ず帰っていらっしゃるよ」北村はいたわるように優しく言った。

「フェルトヘルン ハレ」アロウは地面を見つめながら小さくそう呟いた。

「おとうさんがそう言ってたの?意味を詳しく教えてもらった?」

「それは戦士達の館の名前だよ。北ヨーロッパの神話に出てくるんだけど、僕も兄が読んでいる本を借りて初めて知ったんだ」答えない少女に北村が言い重ねるとアロウは小さく頷いた。

 この南海の島で、北欧の神話を思い出すなんて思いもよらなかった。この子の父親は応召して今は戦地にいるのではないかと北村は不意に思った。

 フェルトヘルン ハレは、戦いの女神であるワルキューレ達の目に留まった勇敢な戦士達が、戦場から引き上げられて歓待される天上の館だったはずだ。

 日本の神話しか知らなかった北村は、兄と北欧神話について話し合った冬の夜のことをよく覚えていた。

 南国鹿児島には珍しく雪が舞い降りていた寒い夜に、炬燵に入ったまま夜が更けるのも忘れて二人は未知の世界について話したのだった。今は希望どおり飛行機乗りになって内地で任務に就いている兄は、あの夜のことを覚えているだろうか。

 彼女の父親は、いとおしい子供達を授かった島を去って激しい戦いが待つ大陸に向かう前に、自らの祖国と祖先達が信じる神話を語り残したかったのではないか。

 父親が娘に神話を話して聞かせる時の優しいまなざしには、これから天上の館に引き上げられるかもしれない自らの過酷な運命と、この島へ残していくしかない愛する者達への愛情が激しく軋む切なさが滲んでいたかもしれない。

「アロウは大きくなったらヨーロッパに行くといいよ。おとうさんもきっと喜ぶと思うな」

「うん。でも私は日本にも行ってみたいの。おにいさんの国を見てみたいから」 

「そうだね。日本でたくさん勉強してから、立派な大人になってドイツへ行くといい。おとうさんもきっと待ち遠しい思いをされていると思うよ」

「パラオの沖から日本まで潮の流れが続いているって本当なの?」彼女はその淡いグレーの瞳いっぱいに北村を映しながら聞いた。

「黒潮だろう?そう聞いたことがあるよ。だからもしもこの海へ手紙を流したら、黒潮が日本まで運んでくれるかもしれないね。アロウや僕が生まれるずっと前から、いろんな人達の思いを黒潮は乗せて、とても遠くまで運んで行ったのかもしれないよ。」

「大切なひとへの手紙を明るい月の夜に海へ流すと、手紙はとても大きな白い鳥になって海を越えるって言い伝えがあるの」

「でも、嵐や、もっと思いがけないことが起こって相手に手紙を届けられないってわかった時に、大きな鳥は涙をたくさん流すの。そして、海の底へ沈んだ涙は神々しいほどに輝く真っ白な美しい貝になるんだっておかあさんが聞かせてくれたわ」アロウは続けた。

「そうか 真っ白な貝になるんだね 涙が」北村は思わず暑熱をまるで感じないほどの清冽な気持ちに全身を包まれるような気持ちで言った。

 古から海の旅路をたどった鳥は多くの涙を流したことだろう。そして今は、敵味方の若い命が、祖国のためにたぎる血潮で南の海を染め上げようとしているのか。

「涙の貝で作った御守を身につけていると、情け深い月が憐れんでくれるともおかあさんは教えてくれたわ」

「アロウが生まれ育ったパラオの神話だね。いつか日本の神話も詳しく教えてあげるよ」そう北村が言うとアロウの表情が明るく輝いた。

「さあ チビちゃん達を連れて帰らないと」

「ありがとう おにいさん またね」

「こちらこそ おかあさんによろしく」北村は、自分に敬礼するアロウの小さな弟に笑って答礼しながら言った。

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