さつま通信

2011年3月15日火曜日

第1章001:オレンジビーチ - スリーデイズメイビー

 白い可憐な貝殻がビーチに寄せてくる波に揺れている。

 少年の日に兄と故郷の海で泳いだ後に、小さな妹に持って帰った貝殻によく似ていると、沖から吹いてくる南の風で額から滴り落ちる汗を乾かしながら北村啓介見習士官は思った。

 支那大陸での戦争が続いている夏休み、母が井戸で冷やしておいてくれた西瓜を兄弟揃って縁側で食べた光景がまるで昨日のことのように彼の胸に甦った。

 あの冷たい西瓜を、できることならこの炎暑の島で苦労している部下や現地人達にたくさん食べさせてやりたいと心優しい彼は思うのだった。

 ペリリュー島へ春に上陸してからもう半年近くが過ぎようとしている。昭和十九年の桜は見ることができなかったけれど、常夏の島で硬い岩盤を相手の陣地構築に文字どおり血と汗を流しているうちにサイパン島は無念にも落ちて、パラオ方面への空襲は日毎に激しさを増してきていた。

 アメリカはパラオを、そしてフィリピンを狙っている。その先には台湾がある 沖縄がある 奄美がある 海の道の果てに、たおやかに横たわる本土がある。

 北村は、桜島を浮かべる故郷鹿児島市の海にはない美しいコーラルビーチに照り返す強烈な南洋の日差しを眩しく見つめながらそう思った。

 英米支蘭によるエンバーゴに苦しめられ生存を脅かされながらも、粘り強く平和を求め続けた交渉をアメリカに打ち切られ、何よりもまず自らが生き延びるためにパールハーバーを攻撃して大東亜戦争の火蓋を切って落とした日に、まるで支那事変以来続いてきた重苦しい暗雲を吹き払ったかのように日本中に満ちた爽快感を肌で感じ取っていた彼は、開戦百日の栄光が過去のものとなってしまった現在、攻守所を変えて怒涛のように襲いかかってくるアメリカから祖国を護るための防波堤として献身できる喜びと使命感に若い血潮をたぎらせていた。

 ここペリリューでは炎熱の下での陣地構築が続いている。岩盤そのもののような地表は硬く、壕を掘るための鶴嘴や十字鍬を跳ね返して磨り減らし掌からはすぐに血が滲んだ。

 ダイナマイトが使える場所はどうにかなったが、炎天下の重労働に吹き出す汗は塩となり、疲労困憊の極に達した。

 地下へ潜って穴を掘り抜いていく作業では暑熱のため短時間しか体が動かず、石灰岩の硬さは兵士達を容赦なく苦しめた。

 築城資材に乏しい陸軍は、共に戦う海軍陸戦隊を拝み倒すようにしながら分けて貰っていた。

 雨水に頼るしかない島では行水も入浴もかなわない夢だったが、時折のスコールに僅かばかりの涼を求めながら、兵士達は渾身の力を振り絞って陣地構築に励んでいた。

 水戸と群馬の兵士達を基幹とするペリリュー地区隊が熊本県出身の中川州男陸軍大佐の指揮下に防備に就いていた。極寒の大陸での戦闘経験はあっても常夏の島で配備に就くのは初めての兵士達であったが、ほぼ現役兵のみで構成された部隊の士気は高く、物量と機械力に物を言わせて平押しに攻めてくるアメリカを、ここで釘付けにして出血を強要しようと敵愾心に燃えていた。

 サイパンやテニアンでの戦訓から、海岸線に重点配備すれば、圧倒的で無尽蔵な海空火力に支援されて上陸してくる敵に短時日で撃破されてしまうことは痛いほど解っていたため、戦闘指導により配置変更を実施し、水際で強烈な一撃を浴びせた後は速やかに後退して地下洞窟陣地に拠って戦う方針だった。

 モグラの巣のように地下陣地を張り巡らせなければならない。上から手榴弾を投げ込まれ、射撃を受けても、横穴に入っていれば耐えられる。

 500以上の洞窟に拠り、敵味方の近接状況を作り出して艦砲も空爆も使えなくさせて至近距離の戦闘に持ち込み長期持久戦へと引きずり込む。

 大規模な夜襲でいたずらに死に急ぐことなく、数人一組の斬りこみ挺身攻撃を執拗に反復することで一日でも一時間でも占領を遅らせて本土への敵の来襲に備える時間を稼がなければならない。

 補給は海軍の航空機によるほんの僅かなものしか期待できず、制空権と制海権をほぼ総て敵に渡している状況下では手持ちの糧食と弾薬類に頼るしかなかったが、中川地区隊長の強固な意志は配下部隊の末端にまで行き渡り、総員一万二千名に達する部隊の士気は極めて高かった。

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