写真は阿久根大島の金毘羅さんです。
無社格ではあるらしいのですが、阿久根市だけでなく鹿児島県の歴史に大いに関わりのある神社ですから、こちらも観光資源として利用しない手は無いと思うのですよね。
阿久根市: ふるさとスケッチ(平成19年4月26日)
http://www.city.akune.kagoshima.jp/osirase/ful/h19_0426.html
江戸時代初期に阿久根の豪商として栄えた河南源兵衛は、当代藩主が海運業の無事を祈り阿久根大島に金毘羅神を祀ったことを受け、盛大な祭りを催しました。この日が旧暦の三月十日であったことから、阿久根では三月十日祭りとして今も受け継がれています。ちなみに、河南源兵衛は当時の琉球密貿易で活躍されていたかたでもあったりします。
日本における琉球関係史跡の紹介
http://www.geocities.jp/ryukyu_history/Japan_Ryukyu/Satsuma5.html
阿久根港:このような歴史的背景があれば、沖縄や奄美のなどの特産品を阿久根の観光に活かしても良いように思うのですが、それはまた別の話と言うことで。
高松川の河口部に発達した湊。沖合の大島・桑島・小島・元之島が天然の防波堤となり、大型船の係留に適していた。現在は河口の北に新港(1978年竣工)、南に旧港、旧港のさらに南に倉津港がある。かつてはこの倉津が当湊の中心であったともいわれ(『三国名勝図会』)、遠見番所も置かれていた(『阿久根市誌』)。*この湊の船主・河南源兵衛一族は近世に藩の御用商人となり、道之島(薩南諸島)や 琉球、また上方・江戸への藩米・黒糖などの輸送を請負った。このため湊は飛躍的に発展した。河南一族の祖初代源兵衛は中国河南省出身の藍会栄で、明朝の高 官を勤めていたと言われ、王朝末期の混乱を避けて琉球に亡命、鹿児島藩に唐通詞として迎えられた人物である。実質的に唐物取引を差配して船主に成長し た。(以上『阿久根市誌』・河南文書など)。
大島の金毘羅神社:
天明四年(1784、一説には同七年)に、藩主の島津重豪が阿久根湊の御用商人河南源兵衛が所有する琉球貿易船の航海安全を祈願して創建した神社という。
とりあえずは、江戸時代の頃は金毘羅さんのご利益もあり、阿久根の港は栄えていたようですから、皆で参拝して盛り上げていくのも一考かと思います。
船で参拝する神社は珍しいものでありますから、参拝客を増やす工夫をしていけば、海水浴期間以外の観光を活性化することにもなります。
ひとなつこい鹿もいるわけですから、奈良の春日野の鹿せんべいみたいな感じで鹿の餌付けを楽しめるような工夫をすれば、金毘羅さんの参拝とセットで阿久根大島観光をシーズンオフの期間中も楽しむことができるはずです。
冬場などは海が時化る時もあるわけですので、船に弱いかたのために阿久根港の側に金毘羅さんを拝めるような祠でも用意すれば阿久根港の側の観光の活性化にもつながります。
現在行っている、阿久根港の防波堤や護岸壁のアート塗装はそのためにも有効なものです。
阿久根大島を「島宮」、阿久根港を「港宮」などと言う感じで整備すれば阿久根港のウォールアートと合わせて水産加工団地の遊休地の活用にもつながります。
遊休地の雑草の処理にヤギなどを放牧して観光客も餌付けできるようなことをすれば、放置されて草ぼうぼうの遊休地が観光資源にもなるのですね。
ウォールアートを楽しみながらヤギの餌やりも楽しめるような工夫などをすれば、阿久根港はただ素通りしてしまう場所ではなくなるのです。
阿久根港を「港宮」として認識してもらうには、切符売場から桟橋までの歩道の入口に鳥居を設ければ良いと思います。
夏場の海水浴の時も鳥居をくぐっての阿久根大島行きとなりますので、単なる海水浴やキャンプの島でなく、神聖な島であることを観光客に認識してもらえ、金毘羅さんのことも広く知られることになるでしょう。
「港宮」のほうは、「島宮」に渡れないかたのための参拝所と言うことにすれば、とりあえずは祠のような感じのものを歩道に設置すれば良いわけですから、そうお金のかかる事業ではありません。
写真は出水市の日本一お地蔵さんの階段の入口にある仮の参拝所ですが、当初はこんな感じから始めれば良いのではないかと思います。
海水浴客と参拝客が増えてくれば、歩道のそばの空き地は露店やフリーマーケットの会場として活用すれば良いと思います。
また、定期的にフリーマーケットなどを開催するようなことをすれば、そのことで参拝者も増えることにつながると思います。
少しづつでも観光客を呼ぶ工夫を継続していくことが大事だと思います。
お金をあまりかけない方法は考えればけっこうあるものです。
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