さつま通信

2011年6月9日木曜日

第7章004:オレンジビーチ - スリーデイズメイビー

「かごめ かごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀が滑った 後ろの正面だ~れ」耳元で懐かしいリフレインが心地良く鳴っている。大場は遠い日に、故郷の神社の境内にいるような気分で聴いていた。どこかで聞き覚えのある女の子の声、誰だったかは思い出せないが確かに自分にとって身近な存在だった、か細くてせつなげで繊細な歌声。

 群馬から満州に向かって原所属部隊を出発する前、最後に手を合わせた仏壇で微笑んでいた幼い弟の笑顔がありありと浮かんできて、もっと遊んでやればよかったとの思いや、からかいすぎて泣かしてしまった時の事が胸をよぎったりした。

 青山少尉殿はな 実はアーメンなんだぜ と、声をひそめるように戦友の一人が囁いた、パラオ本島での外出時のひとときも、弟の幼い面影と交錯するようになぜか思い出された。アーメンか、あの少尉殿は敵の奴らと同じ宗教だったなあ。キリスト教の神って、いったいどっちに味方するんだろうか?それじゃドイツもアメリカもイタリアもイギリスも同じことか。よっぽど殺し合いが好きな神様なのかな?少尉殿はどんなところに惹かれたんだろう?

 うとうとしていると、時々ズシンズシンと腹に深く響く音がして洞窟全体が揺れ始めた。沖合の艦船群からの艦砲射撃だ。まるで定期便のような飛行機がやってきてナパームをばらまき、ロケットを撃ち込まない時は海からのこれだ。無尽蔵とも思える敵の豊富な弾薬、しかし、わが陣地群への艦砲射撃や空爆が続いている間は、同士討ちを避けるために少なくとも近距離には敵兵がいないわけだった。

 大場も他の兵士達も、今ではすっかりこの振動に慣れてしまって、まるで敵兵が遠のいた合図でもあるかのように、轟音を気にもかけない様子で浅い眠りを続けている。司令部での幹部会同と命令受領を終えて部隊へ戻ってきた青山少尉は、疲れ切った部下達が仮眠を取る様子をしばらく立ったまま見つめていたが、自らも腰をおろすと背を壁にもたれさせて戦闘帽を目深に被り直すと目をつぶった。

 奴らよりも狙撃の腕はこちらがずっと上だ。しかし、戦車砲や火炎放射器で激しく火制されながら近接されてくると洞窟入口に据えた機関銃の効果はまるで期待できず、無理な射撃を続ければかえって射手が倒される公算が大きい。なんとかして装甲車両のキャタピラを切るか、火炎瓶で燃え上がらせて、随伴歩兵を散らしてから各個に撃ち殺す戦法はないものだろうか。

 射撃戦の最中に煙弾を撃ち込んできて、こちらの視界を奪いながらの近接戦闘も敵はさかんに試み始めている。煙覆されている間は効果的な射撃ができない。それでも敵はシャワーのように弾をバラまけるからいいがこちらはそうもいかない。金持ちの戦争とはこんなものだろうか。

 しかし、もはやここには自動砲も山砲も速射砲もない。僅かに重擲弾筒と軽機関銃や重機関銃が残されているだけだ。虎の子の戦車隊は壊滅させられたし、無名小島の側防砲兵も沈黙して久しい。さっきの司令部幹部会同では、過早な斬り込みは避けて、なるべく現態勢での狙撃戦を継続し、敵進撃の遅滞に可能な限り努めるというのが結論だった。

 ロシアの森林地帯での赤軍のように、敵をいったん通過させて背後から撃つか?いや、ここは森林ではないのだから、火力を指向できる方向を陣地内で変えられないのでまず不可能だ。陣地外に出てしまってからの射撃戦になれば、火力と速射性で劣るわが方は圧倒的に不利だから。それに、シラミ潰しに陣地を蹂躙してからでなければ、慎重な敵はおいそれと防御線を通過はしないだろう。

 考えがまとまらないままで少尉はまどろんだ。それは、蒸し暑い空気の中で時が止まったように感じられる、とても浅く、胸に何かが重くのしかかってくるような息苦しくて不快な眠りだった。束の間に与えられたのは、いとおしい亜希子も東京も出てこない、遠雷のような微かな響きが耳を刺激するだけの淡い休息のひとときでしかなかった。

 洞窟の入口から、時々青白い光が洩れてくる。敵が夜通し打ち上げている照明弾の灯りだ。夜を昼に変えないと安心できない敵は、豊富な物量に物を言わせて毎晩かなりの量を打ち上げてくる。煌々と地上を照らし出すその光は、まるでこの島で血みどろになって争う生者達を敵味方共に根こそぎにして死の世界へ連れ去ろうとするかのように、不気味な色彩を夜に広げながら不自然で強欲な表情を戦場に与えていた。

 警戒に当たる兵士達は、戦友の立てる寝息を背後に聞きながら、目を皿のようにして敵兵の姿を探し求めていた。敵は夜間行動をあまりとらないけれど、そこは万が一ということもある。定められた交替の時間が来るまで、細心の注意と銃口をひとつに重ねて、兵士達は陣地周囲の気配に神経を研ぎ澄ませながら青白く光る夜に目を凝らした。

 島の夜明けが迫り、打ち上げられる照明弾の数も減ってきた頃、警戒する兵士の目に大きな水タンクを積載した車両が迫ってくるのが映った。

「そうか。あいつら今日はたっぷりと水を飲んでから攻撃にかかろうってことだな」思わず兵士がそうひとりごちた時、数名の敵兵がするするとホースを延ばして先端を洞窟陣地へ向けて固定するのが見え、まもなく勢いよく吹き出した「水」は洞窟陣地に流れ込んできた。

 ガソリンの匂いが周囲に満ちた。「しまった!ガソリンだ」そう警戒兵が気づいた刹那、すかさず躍進してきた敵の火炎放射器付戦車が砲口から炎の帯を長く延ばしてアッという間に洞窟内は火の海となった。

 入口付近にいた兵士がまず悲鳴を上げながら火達磨になって転げ回る。炎は洞窟内を舐めまわすように奥へ奥へとガソリンを貪りながら延びていき、無慈悲な灼熱の手で地区隊兵士達の皮膚を捉えては容赦なく引き裂き、焼けただれさせて思う存分に殺戮した。

 二箇所の洞窟がガソリン攻撃でやられた直後、異様な雰囲気と人が焼けただれる臭い、大きく響き渡る阿鼻叫喚の断末魔の叫び声に他陣地の地区隊兵士達は跳ね起きた。

 入口へ駆けつけた青山少尉は、一目で状況を見て取るとすぐに、まずホースを保持する敵兵に狙撃を集中するように命令すると共に、ホースの先端近くへの火炎瓶投擲を果敢に試みようとした。逆に敵方へ炎が向かうように引火させたいと思ったのだ。しかし、敵は猛烈な阻止射撃を浴びせて日本軍兵士達の狙撃を抑えつつ、次から次へと新たな洞窟入口を狙ってガソリン放射を仕掛けてきた。僅かな掃射の間隙を縫って投擲した火炎瓶数本は、ホースを構える敵のかなり手前で虚しく燃え上がり、よりいっそう激しい阻止射撃を招き寄せてしまった。

 ガソリンの洪水は容赦なく洞窟へ流れ込んでくる。隣接する洞窟陣地から悲鳴が上がった時、青山少尉は連絡通路を使っての別壕への移動を喉が裂けるほどの大声で部下達に命じた。

 追いかけてくる炎の舌から身をかわしながら走りに走る。勾配のある連絡通路を登り切って、敵よりも高い位置にある洞窟陣地へたどり着くと、すぐさま少尉は追及してきた部下達に重擲弾筒を準備させ、大場伍長には焼夷徹甲弾を使用してガソリンタンクを撃つように命じた。

 陣地入口を出て、敵を見下ろす位置まで大場はじゅうぶんに身を乗り出すと、息を整えてからガソリンタンクを狙った。同じく重擲弾筒の射手も全身を敵に暴露しながら落ち着いて照準を合わせる。敵は洞窟陣地への火炎攻撃に狂奔し、中には日本軍の応射が全く途絶えたのを侮ってか立ち上がって自動小銃を乱射している者も見えた。

 彼我の距離は概ね百メートルほど、敵の一人がこちらを見上げて何かを叫びながら銃口を向けた時、大場の小銃と重擲弾筒がほぼ同時に射撃して、ガソリンタンクは大音響と共に爆発炎上して周囲の敵兵達を空へ吹き飛ばした。

 急いで大場達は陣地入口まで退がり射撃姿勢を取った。戦車砲がゆっくりとこちらを向くのが見える。少尉は、さらに洞窟の奥まで退がるように命じた。

 腹に響く戦車砲の発射音が轟き、入口近くに伏せたままだった重擲弾筒の射手が一人、長く呻くと動かなくなった。また一発撃ち込まれ、洞窟入口が大きく砕け散って開口部はさらに広がった。もう一発、敵は対戦車砲を持たない日本軍をここで一気に蹂躙しようと、エンジン音をひときわ高く響かせる戦車を先頭にして洞窟陣地へと這い上がってくる。いったん停止して射撃、すぐに前進を開始。また停止しては射撃を加えてくる。

 漂う硝煙と焼けただれる人の匂いが満ちてくる洞窟陣地で、青山少尉は布団爆雷と棒地雷による戦車への肉迫攻撃を決心した。

「あいつを止めよう!」少尉が叫んだ。

「自分が行きます」大場伍長がすぐにきっぱりと答えた。

 棒地雷を抱えると大場は飛び出す機会をうかがった。数十メートルの距離に迫ってきた戦車に、大場の横をすり抜けて入口から身を躍らせた兵士が仁王立ちになって火炎瓶を投げつけるとすぐに車載機銃と随伴歩兵の掃射に撃ち倒された。

 燃える戦車は血に飢えた鋼鉄の猛獣のように坂を登りながら、倒れた日本軍兵士をキャタピラで踏みにじって突進してくる。無惨に押し潰される戦友の姿を唇を噛み締めて見守っていた大場は、棒地雷を抱え直すと弾かれたように洞窟を勢いよく飛び出した。

 二名の兵士が続いて飛び出し、放胆な立ち撃ちで戦車に随伴してきた敵の歩兵をたちまち二名撃ち殺すと銃剣を振るって白兵戦を挑んだ。

 青山少尉も軍刀を抜くと駆けだした。無我夢中で群がる敵の真っ只中へ飛び込み、大場伍長を追い抜くと白兵戦の渦に飛び込んで手当たり次第に斬り、軍刀が折れ曲がって役立たなくなると投げ捨てて、拳銃を抜いて至近距離から敵兵を撃ち殺した。敵味方が混戦となり小銃はもう役立たなかった。殴り上げ、蹴り上げては銃剣で突き通す。銃床で顔面を打ち、横殴りに銃剣を払って首筋を叩く。銃と銃を打ち合わせて組み止めた瞬間に股間を蹴り、あるいは脛を蹴り下ろす。膂力に勝るアメリカ兵相手に、日本軍兵士達はその獰猛で敏捷な戦士ぶりを遺憾なく発揮しながら、血しぶきを大地に染み込ませて戦い続けた。

 乱戦の渦中に巻き込まれた戦車は、敵味方入り乱れての混戦に機銃掃射もできずに立往生していた。その様子を見て取った大場伍長は、大きく息を吸い込むと戦車に走り寄り、棒地雷をキャタピラに挟み込むようにして押し込んで自分もろともに起爆させた。

 キャタピラが切れた。薄れゆく意識の中で、島の子供にあげたブリキの戦車が大きくなって自分の方へ走ってくるのを大場は見た。ハッチを開けて嬉しそうに満面の笑みを浮かべながら上半身を出して手を振っているのは弟だった。大場伍長は、もう暑さも痛みも敵への怒りさえも感じなくなって、安らかな微笑みを浮かべたまま事切れた。

 敵の随伴歩兵は全滅していた。戦車がキャタピラを切られて行動の自由を失っているのを見た青山少尉は、手榴弾を両手に握ると車体に飛び乗り、拳銃を手にしてハッチを開けて出てこようとした戦車兵を蹴り落とすと安全栓を抜いて二個とも戦車内へ投げ込みハッチを閉めた。

 こもった悲鳴が聞こえると鈍い爆発音が響いてハッチが跳ね上がり、戦車のエンジンが停止して静かになった。

 息を整えた少尉が車体から降りて周囲を見回すと、血溜まりにうつぶせになっている大場伍長が真っ先に目に入った。敵味方の死体が散乱する中で、まだ息のある敵兵が二人、激しくもがいている。一人は斬られた首筋から大量の血を噴き出させ、もう一人は裂けた腹から腸を長く地面に垂らしながら蒼白な顔色で呻いていた。

 少尉は足元に仰向けに倒れている敵の下士官からトミーガンを拾い上げると、目の前でもがいている二人がどうにも手の施しようがないのを見てとって、それぞれに一連射ずつ銃弾を浴びせて瞬時に送ってやった。助かる見込みもなく長くもがき苦しむのを見るのはいくら敵でも忍びなかったからだ。

 もう動く者は誰一人いなかった。眼球が何個か転がっている。ちぎれた腕が切断部からまだ血を流しながら落ちている。大きく裂けた腹から、青白く見える腸が渦巻くように流れ出している。見開かれたままの黒い瞳、青い瞳。血糊に染められた金色の髪と黒い髪。まるで地面に座り込んだように力尽きている敵兵のうなだれた首筋には、深々と銃剣が突き刺さっていた。銃の台尻で顔を無惨に打ち砕かれた兵士がいて、ようやく口と判別できる部分から真っ白な歯がきれいに並んでいるのが見えた。部下達も敵兵も、むごたらしい様子であちこちに倒れていた。

 少尉は敵兵の一人から折りたたみ式のスコップを取ると身につけた。白兵戦で敵の喉笛を切り裂いたり、顔面に斬りつけるのに何よりも役立つ武器だ。日本軍よりも強力な手榴弾も数発を懐に入れ、トミーガンの弾倉を集めて弾帯に取り付けた。

 腰の水筒を探るといつのまにか無くなっていた。うつぶせに倒れている敵兵の腰から水筒を抜き取ると栓をはずして一息に飲み干した。

 「誰か生きている者はいるか?」少尉は大きく息をつくと、動かない敵味方の兵士達に声をかけた。重くて暑苦しく血生臭い風が周囲を吹き抜けていき、戦車のハッチからは煙が細く立ち上っている。僅かに人の焼ける臭いとガソリン臭が入り交じって、先に火炎攻撃で潰された洞窟陣地の方角から流れてくる。

 対戦車砲があれば・・少尉は思った。わが方に歩兵用の肩撃ち式対戦車砲さえあれば近接してからも簡単に負けはしないのに。

「大場も死ななくてもよかったのにな」憮然とした表情を浮かべて少尉は呟くと、死者達の群れから離れて、この戦闘で最初に狙撃を開始した洞窟陣地へと歩き始めた。

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